1895(明治28)年 | 新潟県十日町市中条町に生まれる。本名、賢治郎。 |
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1914(大正3)年 | 早稲田大学予科へ入学。このころに写真に興味を持ち始め、4月21日、河口湖産屋ヶ崎で初めて富士山を撮影したと言われている。 |
1916(大正5)年 | 1月1日、山梨県南都留郡忍野村から初めて富士山を撮影したと言われている。 |
1923(大正12)年 | 9月1日、関東大震災発生。罹災しながらも東京府の委託により各地の被害状況を撮影し、 『東京震災写真帖』(文山社、1923年9月20日)、 『関東大震災大火記念写真帖』(東京東郷資會社、1923年12年25日)等にまとめられて出版される。 |
1926(大正15)年 | 6月〜1927年1月まで伏見宮殿下、山階宮殿下御乗組みの練習艦隊に便乗仰せつけられ、欧州及び南洋各地の写真撮影に従事。 ローマで宰相ムッソリーニに富士山の写真6枚を贈呈したほか、寄港した各国で高官に富士山の写真を贈呈。 |
1931(昭和6)年 | 1月26日、長田輝雄をガイドに自身としては初の雪中富士山登山を行い撮影を行った。 |
1932(昭和7)年 | 2月3日富士登山を行いその登山写真が朝日新聞ほか数紙に掲載。7月には『富士百影作品集』を審美書院より出版。 堀内良平の紹介で、山中湖畔の徳富蘇峰の別荘を訪問。以降交友を深める。 |
1934(昭和9)年 | 昭和9年〜昭和11年に全国12箇所の国立公園が指定され、山田應水とともに各地の国立公園を撮影。 |
1937(昭和12)年 | 台湾(日本統治時代)で3箇所の国立公園が指定され、5月8日〜6月10日の間、台湾の国立公園を撮影。 台湾国立公園の原板のほとんどは紅陽の死後は現存が確認できなかったが、2019年に117枚のガラス乾板が発見された。 |
1938(昭和13)年 | 岡田紅陽の作品《峯は晴れゆく》が50銭紙幣の図柄の元に採用される。 |
1940(昭和15)年 | 写真集『富士山』をアルスより出版。装幀は横山大観。 |
1943(昭和18)年 | 富士の写真「神韻霊峰」一面昭和天皇に献上。写真が「写真」という区分で宮内省を経て正式に献上された初めての例となった。 |
1944(昭和19)年 | 日本観光写真連盟を設立。会長に就任。 |
1945(昭和20)年 | 6月5日、B29による爆撃を受け、自宅が全焼。これまでに撮影してきたほとんどのガラス乾板も消失する。 12月、国際親善の目的をもって、連合軍総司令官マッカーサー元帥に富士写真集を贈呈。 |
1949(昭和24)年 | 厚生省国立公園中央審議会委員に委託される。 |
1950(昭和25)年 | 6月、郵便切手に富士山と国立公園の写真23点が採用される。また郵政審議会専門委員に任命され、郵便切手発行に直接参与した。 10月、日本観光写真連盟(昭和19年設立)が東京都の社団法人に認可され、理事長に就任。 |
1954(昭和29)年 | 「富士の会」設立総会、会長に徳川宗敬就任、紅陽は理事兼副会長。 |
1956(昭和31)年 | 朝倉文夫、横山大観、徳富蘇峰、村上元三合作の顕彰碑を有志が河口湖畔に建立。 |
1957(昭和32)年 | 『富士百景』を平凡社ペリカン文庫より出版 |
1958(昭和33)年 | この年までにニューヨーク近代美術館に《麗容》《夕焼け》《片雲》が収蔵される。 |
1959(昭和34)年 | 写真集『富士』を朋文堂より出版 |
1963(昭和38)年 | 忍野村忍草に朝富士山荘を造り、撮影の拠点とする。 |
1966(昭和41)年 | 米・ポルチモア美術館にて「日本写真家三人展」(岡田紅陽・田中徳太郎・濱谷浩)開催。
生存者叙勲。勲三等瑞宝章を受章。第八回国立公園大会で厚生大臣賞受賞。 |
1969(昭和44)年 | アポロ11号三飛行士に富士山の写真十八景を贈呈。 |
1970(昭和45)年 | 写真集『富士』を求龍堂より出版。題字は梅原龍三郎。 |
1972(昭和47)年 | 11月22日没する、享年77歳 |
1977(昭和49)年 | ボストン科学博物館等で「岡田紅陽 The Many Faces of Fuji」がIFCA(国際親善文化協会)主催により開催される。 全米13主要都市およびアムステルダムを3年に渡って巡廻。 |
1984(昭和59)年 | 岡田紅陽の作品《湖畔の春》が五千円紙幣D号券の図柄の元に採用される。 |
2004(昭和16)年 | 岡田紅陽の作品《湖畔の春》が千円紙幣E号券の図柄の元に採用される。 7月1日、山梨県忍野村に岡田紅陽写真美術館が開館。 |
2023年2月11日更新
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