岡田紅陽写真美術館では千円札のデザインの元となった「湖畔の春」などの代表作をはじめ、常設展として約50点の写真作品を展示しております。 また、富士の写真家 岡田紅陽のこれまでの軌跡を知ることのできる資料等の展示もおこなっております。
年譜

岡田紅陽(本名、岡田賢治郎)は1895年8月31日新潟県中魚沼郡 中条村 (現在の 十日町市)に生まれました。父・龍松は衆議院議員、兄・正平は新潟県初代民選知事という政治家の家系でありながら、岡田家は代々学芸を好み、書画に秀でてもいました。 曽祖父の喜兵衛(号・香雪)、祖父栄蔵(号・雲洞)、父龍松(号・耕雲)は書画ともに優れた才能を残した人物でした。
紅陽がカメラに興味を持ったのは1914(大正3)年の早稲田大学入学直後でした。この年の4月末には友人のカメラを借りて河口湖の産屋ヶ崎から富士山を初めて撮影したといいます。 そして、1916年、21歳の時に山梨県忍野村からの富士に出会いました。この後、生涯を通じて忍野村からの富士山を最も多く撮影することになります。 大学卒業後、写真家としての道を歩み始めた紅陽の身を関東大震災が襲います。 未曾有の大被害を受けた東京や関東各県を、紅陽は東京府の委嘱を受け撮影します。 この記録写真は後に『関東大震災記念写真帖』となり、全国の日本赤十字社道府県支部などで配布され、また解説文が英訳されて国際赤十字社の加盟国へ配送されました。

関東大震災を写真で記録したことで写真家としての大きな実績を得た紅陽は念願の富士山撮影に本格的に取り組めるようになりました。 このころの紅陽の作品は、冬の富士登山での撮影や、富士山の周囲の山々を踏破して撮影場所を開拓するなど、冒険心に富むものでした。 こうして、富士山撮影に取り組む中で、富士に魅せられた徳富蘇峰、川端龍子、横山大観、川合玉堂、川合信水などの文化人たちとの交流が生まれ、共に富士山芸術の発展に寄与していくことになりました。 富士山以外でも、山田応水と撮影した全国の国立公園は、写真集や切手になり、国内外で注目を浴びました。

第二次世界大戦下でも紅陽は富士山撮影を続け、1943年には《神韻霊峰》を昭和天皇に献上しています。しかし戦況が厳しくなると撮影を中止せざるを得ず、 さらには空襲によって自宅が全焼し、これまでに撮影してきたガラス乾板の大半を失ってしまいました。
それでも、紅陽の富士山への情熱は消えることなく、終戦を迎えると再び撮影に没頭しました。晩年には忍野村に別荘「朝富士山荘」を造り、他所では失われつつあった農村と富士山の風景を多く撮影しました。

紅陽の撮影した写真は現行の千円札(E号券)等、これまでに切手や紙幣に採用されたことが多いいため、彼の撮影した富士に懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。 特に忍野村から撮影された農村と富士山の風景は、まさに「ふるさと」と言うにふさわしいでしょう。 切手やお札による紅陽の富士山写真の浸透は、戦後の日本人が持つ富士山のイメージ、すなわち、「日本の原風景としての富士山」を形成する一因になったと言えます。  

紅陽は晩年こう語っています。「一枚として同じ富士は写していません。ましてや心の富士山はいまだ撮りえてはおりません。」また、「富士こそわがいのち」とも。 これらの言葉は、常に富士山を追い求め、共に生きた紅陽の生涯を物語っているでしょう。

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